死者と預言――「クロスゲーム」(あだち充)は誰の物語か

クロスゲーム (17) (少年サンデーコミックス)

クロスゲーム (17) (少年サンデーコミックス)

あえて言おう。「クロスゲーム」は「タッチ」だった。そして、同時に「タッチ」とはまったく異なる物語でもある。

あだち充という人は、80年代以降、一貫して「あだち充的」であり続けた。梶原一騎的な熱血スポ根にとどめを刺したライトで明るい作風、いかなるスポーツを扱っても展開されるラブコメスターシステム的な登場人物たち……。あだち充が描く物語は、ある意味では高橋留美子の「るーみっくわーるど」以上に、常にあだち充的だ。

さて、本作「クロスゲーム」は、そうしたあだち充的な作品群の中でも、もっとも典型的な作品だ。ジャンルは野球、目指すは甲子園。幼馴染のヒロインと、死をめぐって展開されるストーリー。物語を貫くキーフレーズは「タッチ」そのものだ。

では、何が異なるのか? 完結を迎えた本作を、改めて「タッチ」と比較しながら振り返っていこう。

以降ネタバレ含むレビューです。

ご存知のとおり、「タッチ」は優秀な双子の弟・和也が地区大会の途中、交通事故死し、いい加減な兄だった主人公・達也が弟の夢を引き継ぐように甲子園に挑むという物語だ。このなかで、和也はヒロイン・朝倉南をめぐる三角関係のさやあてでもあるのだが、同時に預言者の役割を果たしている。

ちゃらんぽらんな達也は、普通に考えれば、スポーツにも勉強にもマジメで、人望も厚かった完璧超人・和也のライバルとしては役不足だ。しかし、学園のアイドル的な浅倉南との恋でも、和也は達也を最大のライバルとして扱っている。和也だけが(あるいは浅倉南も)、兄・達也の才能を見抜き、やがて自分を超えていく姿を見ていたのだ。そして、物語半ばで舞台を去る。和也は生きている間は浅倉南をめぐる三角関係の相手であるが、死した後は達也の運命を示唆し、託宣する預言者となるわけだ。

クロスゲーム」は明確にこの構図を踏襲する。不慮の事故で亡くなった幼馴染・月島若葉。主人公・樹多村光に思いを寄せていた彼女は、生前は揺るぎない正統派ヒロインであり、死後は超満員の甲子園で160km/hの豪速球を投げる光の姿を託宣する預言者になる。彼女の預言どおり、まともに野球をやったことのなかった樹多村光は、やがて高校で甲子園をめざすピッチャーとなる。

死者と預言を軸にした「クロスゲーム」は、「タッチ」そのものだ。しかし、同時に「タッチ」ではない。それは、ヒロインの役割だ。

「タッチ」における浅倉南は、冒険の終わりに待っているお姫様だ。彼女は「南を甲子園に連れていって」という言葉が示すように、和也が手に入れられなかったお宝であり、「甲子園=浅倉南」というアイコンのようなものだ。

これに対して「クロスゲーム」のヒロインである若葉の妹・月島青葉が果たすのはお姫様の役割ではない。彼女はむしろ、樹多村光と同じように預言者の託宣を受けた人間のひとりだ。樹多村光が受けた託宣が「超満員の甲子園で160km/hの豪速球」であるとすれば、月島青葉が受けた託宣は「コウちゃんを取っちゃダメだからね」というものだ。

「タッチ」において、達也は2つの預言を受けている。「甲子園」と「浅倉南(=恋人)」だ。「クロスゲーム」では、「甲子園」は樹多村光に託されるが、「恋人」は、実はヒロイン・月島青葉に託されているのだ。

「とっちゃダメだからね」という言葉は、預言であると同時に呪縛でもある。誰もが認めていた「樹多村光と月島若葉」というカップルの、ヒロインの役目を青葉は引き継ぐことになるのだが、そこには本来三角関係を争うべきであった若葉はもういない。亡くなった姉の思いを痛いほど知る青葉は、引き裂かれる。預言として彼女はいずれ、若葉のライバルとなることが託宣されている。しかし、光を認め、寄り添うことを選べば若葉の裏切ることになる。「クロスゲーム」は、「タッチ」以上に死者との三角関係に呪縛された物語なのだ。

だからこそ、物語終盤、一種唐突に若葉に生き写しの女の子・滝川あかねが登場することになる。彼女の役割はイタコだ。結ばれるべく下された月島若葉の預言。それを果たすことが、月島若葉への裏切りではなく、彼女の望みでもあるという物語を成立させるためには、死んだ若葉を代弁する者が必要だったのだ。

かくして、イタコであるあかねを通して、樹多村光と月島青葉は預言者に許される。クライマックス、樹多村光は地区予選決勝のグラウンドで想いを馳せる。「そして、月島青葉が一番好きだ」。これは、一見「上杉達也浅倉南を愛しています。世界中のだれよりも」と同じだ。しかし、この宣言で「恋人」を手にいれたのは、果たして樹多村光だろうか? むしろ、死者に許され、「恋人」を手にしたのは、姉の預言と呪縛の間で引き裂かれ続けた月島青葉の方だ。

クロスゲーム」は、ラストシーン、見富士台駅のホームで手を繋ぐ樹多村光と月島青葉の姿で結ばれる。手をつないた2人は、並んで正面を見る。モノローグは光でなく、青葉だ。お姫様を演じた沈黙の「浅倉南」はそこにはいない。

「タッチ」は、上杉達也の成長譚ではあったが、浅倉南の成長譚ではなかった。だが、「クロスゲーム」は、樹多村光の物語であると同時に、月島青葉の物語でもある。青春劇にして巨大なレクイエムであり、ヒーローと同時にヒロインの成長譚である。あのラストシーンには、「タッチ」とはまるで違う月島青葉のまなざしがあるのだ。