サッポロ一番を食べるたびに敗北を感じる

食べるたびに敗北を感じるものといえばサッポロ一番である。

別に「サッポロ一番は敗者の食べ物! 無農薬で育てられた採れたてのインスタント麺を成城石井で買うのが勝者なのだ、貧乏人めが!!」みたいな話ではない。むしろ好きだ。ときどき無性に食べたくなるし、実際さっきもすすっていた。正直、歯医者で出された抗生物質(食後30分)を飲むために半ば義務的につくって食べたのだけれども、しぶしぶ食べ始めても食べてるうちに「うまい」「予想よりうまい」「もう1杯行ってもいい」みたいな気持ちになってくるくらいには好きである。

にもかかわらず、サッポロ一番を食べると、どうしようもなく敗北を感じるのだ。何の敗北かといえば、オタクとしての敗北だ。

何をもって「オタク」と称するかというのはそれはそれでややこしい話ではあるのだけれど、私は一応「マンガをたくさん読んでますよ」というのを売りにしているライターであり、大雑把にいえば「マンガオタク」というカテゴリーに入るといっていい。どちらかといえば「オタク」であるほどいいし、ある種のオタク性は職業的にも求められる資質である。

ところが、前々からうっすらと気付いてはいたのだけれど、どうにもこの人はオタクとしては資質に欠けている。確かにいわゆる一般の人に比べればたくさん読んではいるし、それなりに知っていることはある。レコメンドもできる。けれど、どうも私には偏執的なものがない。データをコツコツと集めて記録し続けるような地道な作業に喜びを感じないし、特定のものに対して圧倒的な愛情を注ぎ、ほとんど妄執のような切り口を生み出すようなこともない。マンガというもの自体は好きだし、好きで仕方ない作品もあるが、ひたすらある作品、ジャンルを深く、繰り返し問い続けるというタイプではないのだ。40歳も近づく歳になれば「まあ、そういうタイプはそういうタイプでできることはある」と思えるようにはなるのだけれど、それでもオタクとしての資質の欠如は思春期以降、今に至るまで私の消えないコンプレックスであり続けている。

サッポロ一番はこのコンプレックスを刺激する。たとえば、私はサッポロ一番では醤油味が一番好きなのだけれど、どうも“通”は塩なのだ。そして、王道は味噌。通の塩派はアレンジに偏愛、いろんなことを語る。不動の王者である味噌も王者らしく語るべきことがたくさんある。ネットにおける食べ物の宗教戦争といえばきのこたけのこ戦争がその筆頭だが、今やほとんどジョーク的になっているきのこ・たけのこに対して、サッポロ一番派閥戦争は「戦争」といえるような状態でない反面、それぞれがうんちくや思い出を含めた思い入れ、偏愛といった一家言を持っている。

対して私である。醤油派である。どうにもこう、存在感が薄い。もちろん少数派であることは恥ではない。むしろ多くの人が持たない偏愛こそが面白いのだ。ところが、私ときたら、別に醤油味に対して語ることがないのだ。「え? うまくない?」。これだけ。アレンジレシピも特にない。なんなら塩の方がパンチの効いたアレンジがしやすいし、野菜やらキムチやらトッピングは味噌の方が相性がいい。醤油味が好きなのにもかかわらず、特に醤油味について独自の見解や視点、偏愛を持たず、「え? うまくない?」だけで醤油派をやっているのだ。醤油派全員が私のような人間ではないはずだが、構成員にこういう意識の低い人間がいたのでは、味噌・塩のツートップに差を付けられるのも致し方ない。麺、粉末スープ、スパイス、パッケージ、水、鍋、タイマー、コンロ、どんぶり、菜箸、箸に次ぐ12人目のメンバーであるサポーターがこのザマなのだ。醤油味の存在感だってイマイチ薄くなる。

散々食べてきて、しかも好きだと公言しているサッポロ一番醤油味に対してすら私には妄執的なものを持てない。サッポロ一番を食べるたびに、私はそういうオタクとしての敗北感を味わうのだ。