人間性が卑しいので、チンチンを見つめ、チンチンもまたこちらを見ている

人間性が卑しいと人生本当に損だ。

日曜日の話だ。ここ最近、日曜日は温泉に行くことにしている。温泉といっても湯煙殺人が起こりそうなやつではなく、スパ的な市民向けの健康施設だ。田舎のいいところはとにかくこの手の施設がそこら中にあることである。温泉にさえ浸けておけば市民は骨抜きにできるといわんばかりに各市町村にあり、しかも利用料がお安い。うちの近所でいうと、600円そこそこでサウナ付きの温泉はもちろん、温水プールも使い放題になる。さらに20時以降は半額。営業終了の22時まで、銭湯の入浴料より安い300円というお値段で露天風呂から半身浴できる風呂、ジェットバス、寝湯、サウナ、水風呂などなどを堪能できる。こうして市民は骨抜きにされ、権力監視精神は失われていく。

そんなわけで反骨精神を失った中年こと私は、日曜日になると夜な夜な温泉に行く。中年の作法に則って「う゛ぁぁぁぁ」とうなり声を上げながら、やたらとたくさんある湯船をハシゴしまくる至福。たまらない。将来は温泉になりたい。

とまあ、温泉に関してはもはやいうことはないし、これ以上ないほど幸福な気分になれるのだが、しょうもない人間はそういう幸せな時間にすらしょうもないことを考える。チンチンのことだ。

裸眼を見られることを極端に嫌う私も入浴時はメガネを外す。メガネを外すとほぼ何も見えない。人間か木の柱か程度の区別が精一杯で、個体差はほぼ消滅する。ハムスターの群れくらいの感覚で、誰が誰なのかわからない。

正直危険でもあるので、メガネをかけたまま入ることも考えるのだけど、いかんせんセルフレームは熱に弱い。お湯をかけると白く粉を吹いたりする。そこまでの犠牲を払って裸のおじさんだらけの空間を直視するのはツラいので、裸眼で手探りしながら入浴することにしている。

ここからが繊細な心の機微なのだが、風呂に入るとチンチンが見える。こちらも余裕があれば手ぬぐいで隠したりはしているが、さすがにもうチンチンを鉄壁のガードで守り抜くような年齢でもないので、私のものもまあ、だいたい見える。基本的に公衆浴場で他人の陰部をまじまじ見つめる人はいないし、私にしたって好き好んで他人のチンチンを見たいとは思わない。だが、それでいて見えたらつい見てしまうのも他人のチンチンである。見たくないと思いながらも、視界に入れば「うーん、えげつないサイズ」とか自分のものと比較してしまう。そういう心理を持つ人は少なくないはずだ。

こちらとしても、まあ見えてしまうものを見られるのは構わない。ただ、当方粗末である。尿道以上チンチン未満くらいのやつであり、「チンチン」というか「ツンツン」くらいの名前がちょうどいい感じのものだ。こっちはただでさえ着々とEDも進行しているのだから、張れる虚勢は張りたい。事実ツンツンだとしても「なるほど、あいつはツンツンか」みたいに思われたくない。とはいえ、大きければいいというものでもないし、他人の股間にぶら下がってるのがチンチンだろうがツンツンだろうがどうというわけでもないので、「ツンツンですけど、それが何か?」という顔をして通している。

その時点でチンチンが小さい上にケツの穴も小さいという話なのだけれど、人間性が卑しいとさらにしょうもないことを考える。私のツンツンは見られるのに、私は裸眼になると他人のチンチンが見えないのだ。オールモザイク。どこが無修正だ。

見たいわけではない。むしろできれば見たくない。けれど、同じ料金払って私のツンツンは品評され、私は品評できない。これは不平等だ。私だって視界に入ってきたチンチンに対して「うーん、これはもうチンチンというかゴンゴンくらいの呼び名がふさわしい」みたいなことを思いたい。いや、思いたくはないのだけれど、何かこう、視力が悪いとここまで人間は不幸になるのか、とサウナで悔しさに震えることになる。

ここまで読んだ人はおわかりのとおり、私が不幸なのは視力が悪いためではなく、人間性もしくは頭が悪いためである。そういうわけで、湯船で恍惚の表情を浮かべながら「俺は……人間性が卑しい……」とつぶやくことになり、安息の日曜は終わっていく。

人間性が卑しいと温泉すらケチが付く。私は私の幸福のために高潔になりたい。そして、将来は温泉になりたい。