改元、あるいは人工の神秘

編集作業をやらないくせに単著も出していないようなライターというのは基本的に小商いである。要するに書いていなければ書いていないだけもらえる銭が減る。「Twitter以外にはたとえ自分の名前でも文字を書きたくない」という日でも、欲望に抗ってキーボードを叩くか、自分の意志を貫いて編集者に殺されるか、どちらかしかない。

無機物を叩くか、殺されるかなので、無機物には悪いけれど、基本的には黙ってキーボードに叩かれてもらうしかない。食らえ、秘打・白鳥の湖!!(ッターーン!!)

とにかく、そんなわけなのでゴールデンウィークもなんだかんだでダラダラとキーボードを叩いている。一応暦の上では連休なので、マンガ読んで原稿書いて、マンガ読んでスーパーへ行って、うーん、原稿……やる? 本当に? いやごめん、ウソ、やらない、くらいの感じで過ごしている。

目の前に迫った締切などは基本的にないので、のんびり過ごせる。なので、日ごろはろくに興味も抱いていない皇室儀式なんかも見る。何しろ退位だ。200年以上ぶりだ。すごい。みんながそう言うので、まあ見る。

見るとなったら「こちとらインテリですから?」くらいの顔をするわけだけど、しかめっ面をしていても、実際のところはさっぱり学がないので「陛下、連休なのに朝から晩まで働いててかわいそう」みたいなことを考えていた。儀式を終えて粛々と退室する皇室の方々を見ながら、このあと控え室入ったら「えー、もう超緊張した! くしゃみとかしたらコラ画像にされるんでしょーもう絶対そうだよー」とか話してるんだろうか、とか不敬極まりないことしか思い付かない。見よ、皇室、これが庶民だ(庶民に対する冒涜)。

だけれども、面白いもので、このレベルで学がない人間でも今上陛下(すでに上皇陛下となるだろうか)が退位礼正殿の儀を終えて部屋を去るとき、スッと立ち止まってゆっくり一礼をした場面はこみ上げるものがあった。ああ、美しい、と学のない人間が、何も考えなくても思わず思ってしまうものを持っていた。

儀礼、様式というのは大変に面白い。ありったけの古文書やら資料やらをひっくり返して、検証して、膨大な知識を総動員してつくりあげた結果、そういうものをまったく知らない人間が見ても美しいと感じる時間ができあがる。それは人工の神秘だ。

神秘というのは、人智を超えたものに触れる体験のことだ。人智、あるいは条理、理屈といったものをまるっと飲み込んで超えるようなものを神秘と呼ぶ。つまるところ、人の手を離れているから神秘なのだ。

矛盾するが、儀礼はそれを擬似的に人の手で生み出す技術だ。

もちろん儀礼も生まれた瞬間はただの形式に過ぎない。それぞれに意味づけをし、その時代なりの理路整然さがつくられる。そして、さらに時間をかけてブラッシュアップがなされていき、やがて形式がガチガチに決められる。

そうして完成した儀礼と様式は、どこかでもはや誰もコントロールできないものになる。もはやその時代には理路整然とはいえない意味づけも、そう簡単には変えられない。何しろ形式は誰の持ち物でもない。一体誰が何をもって変更を許可すればいいのか、曖昧になってくる。もちろん最終的には儀式を執り行う団体なりが決定できるが、あまりに巨大になった儀式は、執り行う主体だけのものではない。それを見るあまねく人々のものでもある。人が人の手で生み出し、コントロールしていたはずの儀式は、そうしていつしか人の手を離れ、誰も完全にはコントロールすることのできないものになる。人智を超え、神秘の装置として儀式は完成する。

そこに本質的な意味、一種の物理的な効能のようなものがあるのかといわれれば、もはやないといってもいい。ないけれど、ないがゆえに儀式は力を持っている。

改元元号というもはや日常生活では不便な、実態としてたいした意味のないものの節目に、意味のないものの神秘を見ることができたのは、なかなか楽しいことだった。