ブロッコリーという食卓の希望

最近食べるようになったもののひとつにブロッコリーがある。年を取ると食べ物の好みが変わるというのはよくいわれる話で、実際僕も30歳を過ぎてからゴボウやアスパラガスなんかが妙に好きになった。

ただ、ブロッコリーとの関係はそういうのとはちょっと違う。よく食べるようになったけれど、別に好きというわけではないのだ。もうちょっといってしまえば、ブロッコリー自体の味は今もってあんまり好きではない。

ひとりごはん用としての自炊のいいところは、徹頭徹尾好きなものだけ食べられるところにある。多少の失敗や味のレベルの限度はあるものの、メニュー選択や味の調整はもちろん、使う素材のひとつひとつまで自分で選ぶことができる。ポテトサラダからキュウリを抜くのも、酢豚にパイナップルをしこたま入れるのも思いのままだ。だから、好きでもないブロッコリーを買う必要もなければ食べる必要もない。

にもかかわらず、ここ最近ちょくちょくスーパーでブロッコリーを買っている。去年ご近所さんにいただいたときに食べたのをきっかけに自分で買うようになった。せっせとスープに入れたり、パスタに使ったり、炒めて食べたりしては、そのたびに「やっぱり別に好きじゃないな」と確認している。嫌いじゃないし、それなりにおいしく食べているけど、だったらアスパラでも入れた方がより嬉しい。それでいて、スーパーで見かけると折を見て買ってしまう。我ながらふしぎな関係だ。

自分がブロッコリーを買ってしまう心理はしばらく説明ができなかったのだけど、あるときふと思った。たぶん、ブロッコリーは食卓の希望の種みたいなものなんだ、と。

好きなものだけを並べられるのが自炊のいいところだと書いたけれど、それは反面自炊の限界でもある。人の好みに合わせてつくることもなければ、未知の食べ物をつくることもないのが自炊の世界だ。好物で埋め尽くされた食卓は、遅かれ早かれ好物の有限にぶつかり、マンネリに陥る。TwitterのTLという仕組みが抱えるジレンマのようなもので、好きなものを集めた結果、心地いいけれど意外性も新しさもない食卓を再生産する暮らしになりやすい。

僕にとってのブロッコリーはそういう食卓における不協和音だ。好きなものばかりが並ぶ食卓にときおり出てくる「そんな好きじゃないけどこれはこれでまあ」という存在。

だけど、そういう存在だからこそブロッコリーは食卓に新風を吹き込む可能性を秘めている。今まで積極的に食べてこなかったから、レシピもあまり知らず、思わぬ食べ方に出会えるかもしれない。アスパラのようにあるとき急に好きになって劇的に食卓の勢力図を変えてくれるかもしれない。そういう期待から無意識に取り込まれた不協和音なのだ。

いつか食卓のマンネリを変えてほしい。そういう希望を我が家のブロッコリーは背負っている。

 

 

僕は「許されたい」という気持ちでラブコメを読んでいる

「許されたい」という感覚がある。

今日も今日とて『じけんじゃけん!』の新刊を読んで脳を溶かしていて改めて思ったことだ。日中「はぁ〜〜〜〜百合子先輩かわいいんじゃぁ〜〜〜〜!!!!」という気持ちを発酵させすぎた結果、感情のアルコール度数が高まって揮発し、23時現在妙に仏の気持ちになって、しみじみと「許されたい」と考えていた。

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『じけんじゃけん!』は広島にある高校のミステリー研究会を舞台にした日常コメディだ。軸になるのはミステリー狂いでいつでも黒タイツの百合子先輩と、百合子先輩に一目惚れした転校生・戸入くん。校内一の美人でありつつ、実はポンコツだったりする百合子先輩だけでなく、戸入くんに恋心を抱いている幼なじみのひまわりや、小悪魔的な百合子先輩の双子の妹・野薔薇さん、イギリスから来た百合子先輩を慕う妹系キャラ・アイリス、百合子先輩の幼なじみで戸入くんの元カノ・オカルト好きの犬神先輩と、ヒロインてんこもりとなっている。

さらっとすくっただけでこの状態なので、実は紹介するのが難しい作品である。ミステリーあるあるの会話劇でもあれば、多ヒロインラブコメでもあるし、地方ご当地マンガとしても紹介できるし、ポンコツ系ヒロインマンガともいえるし、タイツで出汁を取って食べるタイプの人間にはグルメマンガともいえる。ヤングアニマルなので(偏見)あざといくらいのエロというかフェチも盛り込んでいる。要素的にはゆるめの日常系ラブコメのトレンドをこれでもかとてんこ盛りにしている作品なのだ。これだけ盛ると狙いすぎで散漫になりがちなものだが、『じけんじゃけん!』はどれが軸ともいいがたいつくりでありながら破綻なくコメディとして成立している。しいていうなら「女の子たちがかわいい」というのが軸なのだろうけれど、実際に描き手が何を意識しているのかはわからない。機会があれば聞いてみたいところだ。

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これだけいろんな要素を詰め込んだ作品なのだが、私が『じけんじゃけん!』で脳を溶かすポイントはこれまでに挙げたところとは別だったりする。私は「許してくれる」ヒロインが好きなのだ。

この「許してくれる」という感覚は自分のなかにずっとあるのだけれど、うまく表現できずにいる感情でもある。そもそも何を許されたいのか、を伝えるのが難しい。

ブコメとしての『じけんじゃけん!』の軸は、戸入くんが百合子先輩を追うという形だ。しかも、それは隠された恋心ではない。戸入くんは折に触れては百合子先輩への好意を伝えており、百合子先輩もそれを(少なくとも言葉としては)認識している。そして、百合子先輩はそれに応えるでもない。というより、どちらかといえば気持ち悪がったりすることの方が多い。面白いのは、それでいて百合子先輩が戸入くんを拒絶するわけでもない点だ。

これが僕のいう「許してくれる」という感覚だ。好意に対して好意を返してくれるのも、もちろん喜ばしいし、そういうラブコメだって好きではある。だけど、「好意を許される」というタイプの関係がクリティカルに好きだったりもする。もっといえば、たぶん僕自身の究極の望みなのでもあるんだろう。

それは「友だち以上恋人未満が一番楽しい」とか「失恋中毒である」みたいな話とも違う。やっぱり「許されたい」としかいいようがないのだ。

吉野朔実の『恋愛的瞬間』に「墜落する天使」というエピソードがある。本筋は恋をしたことがないアイドルの話なのだが、アイドルのコンサート会場に行った登場人物のハルタが「ほしいって感情が渦巻いている」というようなことをいう場面がある。好意というのは相手に差し向けるものであると同時に、相手に何かを返して欲しいという感情だという話だ。そういう意味では、好意は向けられる側にとって凶器でもある。

そういう好意を、僕はポンッと許されたい。ただただ「はいはい、大好きね」ととどめられたい。もしかしたら犬と飼い主のような関係かもしれない。犬のように、無邪気に愛情を表現して、憎からずただ受けとめられる。 

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こういう話を何度か知り合いにしたことがあるけれど、結局うまく理解してもらえなかった。たぶん世の中にも認識されていない(言語化され、共有されていない)欲求だと思う。だけど、何かを推している人だとか、あるいはキャバクラでデレデレするおじさんたちのなかには、こういう感情を無意識に持っている人が割といるんじゃないかと思っている。

そんなわけで、「許されたい」という気持ちで僕は今日も『じけんじゃけん!』を読んでいる。 

じけんじゃけん! 1 (ヤングアニマルコミックス)

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理想の街中華が近所に見つかったので、うちの坪単価は実質7億くらいある

いざというとき頼りになるものといったら、肉親と現金の次くらいに入ってくるのが街中華だ。街中華、つまり街の中華屋。百貨店に入っているような高級中華ではない。ラーメン屋でもない。かつてなら微妙に古いマガジンと漫画ゴラクが置いてあるような店。近所にあってこれくらい頼りになるものはない。

ある程度人類をやっていると、「あと5秒以内に何か食べなければ死ぬ」という状況に陥る瞬間があるわけだけど、そんなときにフランス料理のコースを悠長に前菜から出されたらシェフ マスト ダイである。何がカルパッチョだ。白米を出せ。

それに比べて街中華だ。問答無用で白米が出てくる。おかずももちろんセット。下手をすればスープまで付いてくる。すべてが同時。何もかもが美しい調和に満たされた状態で運ばれてくる。優れた街中華が近所にあるかないかで人生の強度が変わる。

そんなわけで私は日々街中華の開拓に余念がない。私が街中華に望むものは暴力である。炭水化物、油、塩分。糖質制限とヘルシー志向を駆逐し、最終的には客も脳卒中でことごとく殺すという強い殺意である。その殺意をくぐり抜けた先にこそ我々のヘブンがある。

とりあえず王将でもあれば御の字ではあるのだが、欲をいえばもう少しプレミアムな庶民感があるのが望ましい。具体的には中国人の店主がベターだ。

中国人店主の街中華には日本人が失ったものがある。そこには「おいしいものをちょっとだけ」などという洒落臭い哲学はない。あるのは「満腹こそ至高」という人生の真理だけだ。小洒落たかき氷1杯分程度の値段で、塩っ気の効いたカロリーが山盛りで出てくる。もしかしたら日本の物価を理解していないのかもしれない。大陸文化は偉大だ。

そんな理想の中華屋が最近近所で見つかった。600円台のランチでラーメンと丼ものがセットで出てくる。ミニラーメンとかいうケチくさいものじゃない。当たり前のように2つともレギュラーサイズ。

さらに何を思ったのか月曜日はサービスデー。そもそも五目チャーハンが400円という価格設定なのに、月曜日はこれが300円。麻婆豆腐や台湾ラーメンなども300円になる。港区の連中が1,000円払って食パン食ってる間に、我々は900円でラーメンとチャーハンとチャーハンを食える。これが本当のセレブだ。

もちろんおかずの味付けは米に合う仕上がり。ちょっと気を抜くと米がなくなる。

そして、この店が理想を超えてきているのは、そういう定食テイストをベースにしていながら、絶妙に香辛料も効いているところだ。

基本的には街中華に香辛料みたいなものは求めていない。そんなデリケートさよりも一口でどれだけ白米を食べられるかの方が重要なのだ。しかし、この店と来たら白米に合う味である上で香辛料が後を引く。中華丼にしてもイカなんかはきっちり柔らかい。火加減が圧倒的に正しい。

しかもこの店、田舎にしては珍しく24時まで営業しているのだ。夜中にカロリーを取れ、という強いメッセージ性を持っている。おそらく天才が経営する店だ。

近所にこれだけの店が見つかったことで、我が家の土地の坪単価も実質7億円くらいになっている。汐留のタワマンに住んでる人たちがうちの近所に移住してくる日も遠くないと思う。

 

 

日清オイリオ キャノーラ油 1300g

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改元、あるいは人工の神秘

編集作業をやらないくせに単著も出していないようなライターというのは基本的に小商いである。要するに書いていなければ書いていないだけもらえる銭が減る。「Twitter以外にはたとえ自分の名前でも文字を書きたくない」という日でも、欲望に抗ってキーボードを叩くか、自分の意志を貫いて編集者に殺されるか、どちらかしかない。

無機物を叩くか、殺されるかなので、無機物には悪いけれど、基本的には黙ってキーボードに叩かれてもらうしかない。食らえ、秘打・白鳥の湖!!(ッターーン!!)

とにかく、そんなわけなのでゴールデンウィークもなんだかんだでダラダラとキーボードを叩いている。一応暦の上では連休なので、マンガ読んで原稿書いて、マンガ読んでスーパーへ行って、うーん、原稿……やる? 本当に? いやごめん、ウソ、やらない、くらいの感じで過ごしている。

目の前に迫った締切などは基本的にないので、のんびり過ごせる。なので、日ごろはろくに興味も抱いていない皇室儀式なんかも見る。何しろ退位だ。200年以上ぶりだ。すごい。みんながそう言うので、まあ見る。

見るとなったら「こちとらインテリですから?」くらいの顔をするわけだけど、しかめっ面をしていても、実際のところはさっぱり学がないので「陛下、連休なのに朝から晩まで働いててかわいそう」みたいなことを考えていた。儀式を終えて粛々と退室する皇室の方々を見ながら、このあと控え室入ったら「えー、もう超緊張した! くしゃみとかしたらコラ画像にされるんでしょーもう絶対そうだよー」とか話してるんだろうか、とか不敬極まりないことしか思い付かない。見よ、皇室、これが庶民だ(庶民に対する冒涜)。

だけれども、面白いもので、このレベルで学がない人間でも今上陛下(すでに上皇陛下となるだろうか)が退位礼正殿の儀を終えて部屋を去るとき、スッと立ち止まってゆっくり一礼をした場面はこみ上げるものがあった。ああ、美しい、と学のない人間が、何も考えなくても思わず思ってしまうものを持っていた。

儀礼、様式というのは大変に面白い。ありったけの古文書やら資料やらをひっくり返して、検証して、膨大な知識を総動員してつくりあげた結果、そういうものをまったく知らない人間が見ても美しいと感じる時間ができあがる。それは人工の神秘だ。

神秘というのは、人智を超えたものに触れる体験のことだ。人智、あるいは条理、理屈といったものをまるっと飲み込んで超えるようなものを神秘と呼ぶ。つまるところ、人の手を離れているから神秘なのだ。

矛盾するが、儀礼はそれを擬似的に人の手で生み出す技術だ。

もちろん儀礼も生まれた瞬間はただの形式に過ぎない。それぞれに意味づけをし、その時代なりの理路整然さがつくられる。そして、さらに時間をかけてブラッシュアップがなされていき、やがて形式がガチガチに決められる。

そうして完成した儀礼と様式は、どこかでもはや誰もコントロールできないものになる。もはやその時代には理路整然とはいえない意味づけも、そう簡単には変えられない。何しろ形式は誰の持ち物でもない。一体誰が何をもって変更を許可すればいいのか、曖昧になってくる。もちろん最終的には儀式を執り行う団体なりが決定できるが、あまりに巨大になった儀式は、執り行う主体だけのものではない。それを見るあまねく人々のものでもある。人が人の手で生み出し、コントロールしていたはずの儀式は、そうしていつしか人の手を離れ、誰も完全にはコントロールすることのできないものになる。人智を超え、神秘の装置として儀式は完成する。

そこに本質的な意味、一種の物理的な効能のようなものがあるのかといわれれば、もはやないといってもいい。ないけれど、ないがゆえに儀式は力を持っている。

改元元号というもはや日常生活では不便な、実態としてたいした意味のないものの節目に、意味のないものの神秘を見ることができたのは、なかなか楽しいことだった。