ポール・ニザン的非モテの矜恃――公式サイト「花漫工」に見る花沢健吾の視座

ルサンチマン 1 (ビッグコミックス)

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Twitter鈴木マサカズ先生のPost経由で花沢健吾先生の公式サイトができたのを知り、早速見に行きました。

花漫工

はい、閉じた―。ヘッダ画像見た瞬間ほとんどのユーザーが逃げたよ―。
脅威の直帰率と光速滞在タイムを記録出来そうなサイトです。
鈴木先生経由という経路だったので「ガセではあるまい」と思い、サイト内を見て回って、「どうやら本当に公式サイトのようだ」というところまで理解できましたが、このブログのようにいかがわしいユーザーブログから飛んだら、でっかい釣り針に引っ掛かったという印象が強すぎて公式と信じてもらえなさそうです。僕が小学生くらいだったらトラウマになっていたところです。幸い僕はもう大人だったので、警察署の然るべき部署に通報しそうになる程度で事なきを得ました。恐るべし、花沢健吾

花沢健吾と言えば、稀代のタカ派非モテの作家です。
みうらじゅん伊集院光コンビによる「D.T.」の前後から、「童貞」「非モテ」というジャンルはある種の社会的地位を確立し始め、「童貞 イズ ビューティフル」の文脈が顕著になりました。かつて岡田斗司夫が仕掛けた「オタク イズ ビューティフル」論調(この言葉自体は岡田斗司夫のものではないですが)と同じような構図です。
ただし、「D.T.」に代表される非モテ・童貞解放運動は、基本的にハト派です。というのは、彼らの語る「童貞」は、あくまで“振り返られた童貞”だからです。「今思うと、あの頃の『モテてー』『ヤリてー』パワーってすごかったよね。あれが原動力だったよね」という、「童貞でない現在」から見た憧憬としての「童貞」です。

これに対して、タカ派非モテは「今まさに渦中にある非モテ、童貞」の視点に立ちます。つまり、現役の童貞の視座です。この視点に立ったとき、ハト派の「童貞 イズ ビューティフル」論は効力を失うどころか、本来許し難い仇敵ですらあります。
それは、ポール・ニザンの「僕は二十歳だった。それが人生で一番美しい年齢だなどとは誰にも言わせまい。」という言葉に象徴されるものとまったく同じです。すでにその時代を通り過ぎた大人たちにとっては、青春は人生のもっとも輝かしい1ページですが、その渦中にある人間にとっては、痛々しさと惨めさ、苦悩に満ちた現実にほかなりません。
こうしたハト派非モテ批判が非モテ界隈から明確に出てこなかったことは、この10年の童貞論壇における最大の怠慢であるといってもいいでしょう。何だ、童貞論壇って。

話が逸れましたが、こうした対立の構図で見た場合、花沢健吾はまさにタカ派非モテの象徴的作家です。(※本人がハト派批判を行なっていたり、嫌っているかどうかとは無関係です。作品的にそういう視座に立っていると、読者として読むだけですので、別にご本人はハト派を憎んでいるわけではないと思います。念のため。)
虹オタ(二次元オタク)の強烈な孤独と愛と昇華を描いた「ルサンチマン」、非モテ20代のあさっての方向への全力疾走を描く「ボーイズ・オン・ザ・ラン」と、立て続けに発表された作品は、常に現在進行形の非モテ・童貞の痛々しい滑稽さに満ちています。それは結果的にタカ派の視点から見ればある種の輝かしさですが、輝かしさとして片付けるにはあまりにも生々しい痛みが花沢作品の魅力であり、僕がタカ派と呼ぶ理由です。

「花漫工」はそうした花沢作品の持つとてつもないエネルギーと滑稽さを象徴するようなサイトに仕上がっています。花沢健吾がいかなる作家なのか。このデザインには、奇しくもそんな情熱とサービス精神が体現されていると思います。