私の大事な“友人”とこれからの読者のために――東京都青少年育成条例の改正案について

Twitterやブログ、メディアの報道記事によってすでに耳にしている人も多いかと思いますが、東京都の青少年育成条例の改正案が先日都議会に提出され、審議が3月16日〜18日と近づいています。今回の改正案ではマンガや小説などにおける「18歳未満」および、「18歳未満として表現されていると認識される」キャラクター、いわゆる「非実在青少年」の性表現を「不健全図書」の対象として規制が盛り込まれていることから、各所で物議を醸しています。

詳細や背景についてはこちらのエントリーにまとめましたので、ご覧ください。

私はライターという職業をやっておりますが、別に「ジャーナリスト」を標榜するほど政治的でもなければ、「研究者」というほどアカデミックでもありません。マンガに関して私はまず何よりも読者であり、一介のマンガ読みでありたいと思っています。
そういう私にとって本は、マンガは28年の人生の悲しいとき、うれしいとき、寂しいとき、つらいとき、楽しいとき、ありとあらゆるときに傍らにいて支えてくれた、リアルな友人と同じくらい大事な友人であり、師です。
それは、多くのマンガファン、マンガ読みという人たちにとっても同じだと信じていますし、これからたくさんの人やマンガに出会う若い人々にとってもそうであって欲しいと願っています。
友人にはいろいろな人がいます。品行方正な人もいれば、ちょっとワルなやつもいる。大人もいれば、子どももいる。嫌いなやつも、好きなやつもいるでしょう。
しかし、どんな友人と出会い、付き合い、それに対してどういうジャッジを下すかは、他人が決めることではありません。それは本人が決めることです。
マジメな優等生しか知らずに成長することが果たして正しく健全なことでしょうか? 誰の心の中にもある後ろ暗い、やましい面を、「そんなものがあるのは不健全で病的な人間だ」とでもいうように、クリーンなものだけを与えるのが正しい社会でしょうか?
私の“友人”にはイケない連中もたくさんいます。「不健全図書」と烙印を押され、流通から一時消えたことのある“友人”もいます。しかし、その“友人”は、確かに10代、20代の悩める私を救ってくれた、かけがえのない恩人でもあります。
その“友人”が、他の誰かにとって必ずしも大事な“友人”になるかはわかりません。しかし、それを国だの自治体だのという他人が、青少年の性表現があるというだけの基準で振り分け、主観的に「有害か否か」をジャッジし、排除できるというのは、私にとっては許し難い傲慢であり、侮辱です。作品にとっても、読者にとっても、出会い、自らの判断を行なうという行為を踏みにじる、人の尊厳を軽んじる行ないです。また、現実にある問題を描こうとする作家の表現と、そうした問題に出会い、考える機会を人間から奪う行為です。
ゾーニングは大事です。何でも出会えればいいというものではないでしょう。子どもをいきなり大人だけの飲み会に連れて行かないように、ある程度の配慮をしてあげるのが大人の役目です。
しかし、青少年の性の問題やテーマの存在まで否定して、なかったことにしてしまうことが、まっとうな社会を作ることにつながるとは思えません。
重要なのはそこにある問題と向き合う環境をどのように作るかです。

青少年と文化、成長環境は適切に整備されるべきです。しかし、それは今回のような乱暴な方法であってはならないと信じます。