重力から解放されたような軽やかな苦悩――「純潔のマリア」(石川雅之)

純潔のマリア 1 (アフタヌーンKC)

純潔のマリア 1 (アフタヌーンKC)

「偽物の聖者と偽物の魔女で何やってんだか」と彼女は言う。
彼女というのは本編の主人公、魔女マリアだ。

かもすぞ」でおなじみの「もやしもん」で一躍人気作家になった石川雅之が、最新作「純潔のマリア」で選んだ舞台は百年戦争時のヨーロッパ。世界史に疎いので詳しくはわからないが、ラ・ピュセルジャンヌ・ダルクがすでに処刑され、教会の異端審問所による魔女狩りが始まっているところを見ると、百年戦争も末期の1430〜1450年頃と思われる。
もやしもん」のイメージが強いため、中世ヨーロッパという舞台は突飛に思う人もいるかもしれないが、石川雅之南北朝時代倭寇を描く「カタリベ」や「人斬り龍馬」のような作品も描いており、元々こうした歴史系の話は好みなのかもしれない。

さて、本作について一言で言うなら「傑作」に尽きる。1巻が出たばかりという時点でそんな仰々しい評価をするのもどうかと思う。何しろ、1巻自体、まるごとプロローグにすぎない。これからどういう物語が展開されるのか、まだまだ見えていない。
しかし、およそ普通の雑誌連載であれば1〜2話でまとめてしまうであろうプロローグ的な話をこれほど丁寧にゆっくりと展開しながら、まったく飽きさせず、今後の展開に惹きつけるストーリーテリング力は、「傑作」という言葉以外に評する言葉がない。

以下、若干のネタバレを含みながらレビューする。


冒頭に本作の主人公、魔女マリアのセリフを引用した。終わりの見えない100年戦争、権威をかさに腐敗し始める教会勢力……そんな人間の世界は、魔女であるマリアから見れば偽物の理に満ちた我慢のならない世界だ。
これは中世のヨーロッパに限らない。人間の世界は常にあやふやで不確かな価値の上に成り立っている。ほんの60年前まで聖戦だった戦争は侵略という歴史的汚点に塗り替えられ、万世一系を揺るがした逆賊は幕府を開いた英雄のひとりになり、支配層を律するための論理であった良妻賢母思想はあたかも日本史全体を貫く伝統かのようにすり替えられて浸透した。価値観は世代を2つもまたげば驚くほどドラスティックに変化する。人間の世界はかりそめと偽物の中に本物(らしき何か)が紛れ込むような玉石混淆の危なっかしい世界だ。
しかし、では、本物の魔女と本物の神はどうか。
本作が問いかけるのはそこだ。

マリアは人ならざる力で人間の世界に干渉していく。彼女の力は理不尽に虐げられる人を救い、無益な戦争を退ける。しかし、そんな彼女はあるとき、本物の大天使・ミカエルに目をつけられる。
村を救おうとしたマリアをねじ伏せるミカエル。マリアは叫ぶ。

「地上では皆あちこちで救いを求めているぞ」
「なのに祈っても祈ってもお前達は全然人を救わない」
「だからあたしがやっただけだろ」

ミカエルは答える。

「天上の教会は地上を見守る 手は出さない」
(中略)
「すべて神が示し 導くなら」
「神は世界など創らずに物語を一篇つづればよいだけだ」

ミカエルはまったく正しい。神が手を下さないことは全体として人間の尊厳を守ることだ。
しかし、同時に今そこにいる、祈るしかない人間たちにとって、それは救いのない結論でもある。
全体の正義と個の幸福はしばしば矛盾する。もっと言えば、ほとんどの場合両立しない。人間を「人類」という全体で見る神は、個としての人間にとって本当の神なのか? 理を乱す魔女は、唾棄すべき本当の魔女なのか?
偽物の聖者と偽物の魔女の上で繰り広げられる、もうひとつの真贋。本作はこの2つのレイヤーの論理が入り乱れながら問いを投げかける。

こうしたテーマと構造だけでも十分面白いのだが、本作を「傑作」とまで評するのは、徹頭徹尾エンターテインメント作品だからだ。
解説するとこれほど重々しいテーマになるが、読後感はとんでもなく軽やかだ。マリアの滑稽なウブさに笑い、萌え、アルテミスのセクシーさに無邪気に鼻の下を伸ばせる。答えのない苦悩すらも、重力から解き放たれたように軽やかに宙に舞う。
もやしもん」で磨き上げられ、完成度が高まった独特のユーモアに溢れる石川節は、重いテーマを軽やかに包み込み、唯一無二の作品に仕立て上げている。
重いテーマと軽い作風。ともすればつぶし合いになるこの2つを見事に両立させる技量は石川雅之の真骨頂だ。
文句なしに傑作。今もっとも早く続きを読みたい作品のひとつだ。