いつか帰るよ――「ありをりはべり」(日向なつお)と思い出話

ありをりはべり(1) (KC KISS)

ありをりはべり(1) (KC KISS)

神様が見える女の子と八百万の神様、そして人々の生活を描くのが本作「ありをりはべり」。
作品は作品として良作なのですが、今回はそれはともかくとして少々個人的なお話を交えながら。

作者自身があとがきで「なんとなく場所がわかっても知らないふりしてください」と書かれており、また本作自体もその土地をモデルにしただけで、直接的な舞台にしているわけではないので、詳しくは書きませんが、本作の舞台のモデルとなった町は僕の故郷でもあります。
地元だからというのもありますが、そうでなくても私の実家のある片田舎の神様は日本の神話上でも屈指の有名人なので、ちょっとそっち系をかじったことのある人ならすぐにわかるかと思います。
興味のある人は古事記、国譲りといったフレーズで検索すれば、それなりにいろいろな資料が見つかると思います。面倒な人は作中の神様の名前でそのまま検索しても、モデルの神様に行き着くはずです。
そして、検索してひとしきり色々と読んでいただいたら、それはそれとして傍らに置いて本作を読んでもらえればと思っています。

というのは、この土地の人間にとって、神話は単なる遠い伝説ではなく、ある部分で生活の一部として今もなお生きているものだからです。こう書くと、いかにも日本の神秘が残ってる土着信仰の変わった土地と思われそうですが、別にそういうわけではありません。どこにでもある田舎町です。

しかし、同時に信仰と祭事が町の中に遺伝子のように深く染みこんでいるのも事実です。自分が住んでいるときはそんなこと思いもしなかったし、若い子は大社に祭られる自分たちの氏神の名前も知らない人がほとんどでしょうし、自分たちが氏子であることもあまり意識してないでしょう。が、地元を離れて東京で10年も暮らしているうちに、郷里の氏神信仰がどれほど生活に深く根ざしていたか、改めて発見するようになりました。
東京には氏神がいません。正確に言うと東京にもたくさんの氏神がいて、それを祭る人々の信仰は深く深く残っているのですが、東京にいるたくさんのよそ者のひとりである僕にとっては、東京の祭事は東京の氏子の祭事に過ぎません。
参加したかろうが、したくなかろうが、当然のように巻き込まれ、祭事に触れるという環境は、ある種氏子だけに課せられた義務であり、同時に特権です。食事をするように、氏神の祭事に触れるという、生活レベルでの信仰がそこにはあります。

そういう意味で、「神様が見える」という本作の設定は、ファンタジーでありながら、同時にある種の地方の信仰のリアルさでもあります。地方において、神様は見えないまでも、生活の中に生きており、常にともにある者です。
作者がわざわざ地名を伏せたがるのも、何も専門家の苦笑を避けたいというだけでなく、それがまだまだ実際に“生きている”ものだからだと思います。生活の中に息づく畏れを描くのは、大変やっかいでややこしいものを秘めています。基本的には郷土のことを描くものを誰も邪険にはしないでしょうが、同時に生々しいものなので、不意にどこかの誰かの琴線に触れてしまうこともあります。
地元を遠く離れた、いい加減な氏子である僕にとっては、その生々しさが懐かしくて面白いのと同時に、改めて新鮮でした。

そんなふうに、設定はファンタジーながら、氏子信仰と土地神、八百万の神々というもののある種のリアリティがここには潜んでいるんではないかと思います。故郷に氏神を持つ氏子の皆さんはもちろん、氏神信仰というのがよくわからないという人も、そういう視線から読んでもらうと、地方に残る信仰というものの一端に触れられるかもしれません。

それにしても、山際から見下ろす湖の景色とか、一面に広がる田んぼとビニールハウスとか、うちの地元って、本当こういう感じですよね(笑)。民家もまさにあんな感じです。立ち寄ることがあれば、ぜひ見比べてみてください。

※ちなみに、次巻では「神無月」のお話が出るそうですが、つまりこの設定だと「神有月」のお話になるのでしょうか。出雲以外では神有月を迎える土地は数えるほどしかなかったと思います。僕は割とこの国譲りと神有月の話は好きなので、楽しみです。