学園ラブコメから「モテキ」へ——恋愛マンガ30年史プレビュー

モテキ (1) (イブニングKC)

モテキ (1) (イブニングKC)

 映画「モテキ」について書くにあたって、周縁状況、バックボーンとして、恋愛マンガの(そして90年代サブカルが)たどってきた30年の個人的なプレビューが補論となりそうだったので、当初記事内にまとめたのだが、補論の割に長くなってしまったため、別途エントリーとしてまとめる形にした。単体で読ませるにはややざっくりとしすぎているが、私としても一度まとめておきたかったので、ともあれここで公開しておこうと思う。

 恋愛物語(特にマンガにおける)は、この30年、常に矛盾をはらみながら展開されてきた。「ラブコメ」(特に学園ラブコメ)と呼ばれるジャンルが一気に台頭した80年代は、ネクラ/ネアカという若者の“あ・かるい”階級闘争が始まった時代であり、雑誌「an・an」が特集を組んだことを発端に、クリスマスが恋人のイベントへと変貌した恋愛という自己承認装置が大々的に台頭し始めた時代でもある。これは、都市化の流れの中で、田舎的な村社会が中央で機能しなくなり、特に家庭を持たない若い世代での自己承認装置が決定的に不足したことが背景にあるのではないかと思う。

 いずれにせよ、80年代はライトで明るく、ある種非常に健全で楽しい恋愛を啓蒙するようなラブコメが大きく飛躍した時代であった。だが、そうした啓蒙がうまくハマり、みんなが楽しく恋愛に参加できるようになれば(そして、それが公然と物語の文脈に組み込まれれば)、自己承認装置としての恋愛はある種の破綻を迎える。

 恋愛物語の最大の眼目は、いかにして絆と自己承認を描き出し、それを読者に説得するかにある。「この私を代替不可能な何者かとして受け入れてくれる」からこそ、恋愛物語は自己承認装置として機能する。しかし、文化として恋愛が定着していけば、付き合っては別れ、経験を積んでいくという当たり前のことが現実に氾濫する(あるいは浮き彫りになる)ことになる。そのとき、元彼と“この私”と今の彼氏は、ある種代替可能な何者かに格下げされることとなる。実際にはそれぞれがそれぞれに異なる役割を持っていようと、物語的な“この私”の神話性は否定される。

 80年代の終わりから90年代にかけて、この矛盾が恋愛マンガの中で噴出し始める。80年代後半には“女の子エッチマンガ家”とくくられる諸作家が世に出始める。岡崎京子らこうした作家は、やがて「エロマンガ」としてのセックスでなく、当たり前の日常風景としてのセックスを描き始める。そして、同じくエロ畑から登場し、やがて有害コミック騒動で矢面に立つことになる山本直樹は、この時期「Blue」などの作品で「セックスはできるのに、むしろセックスが手軽にできることによって、自分の純情(代替不能な絆を求める気持ち)が達成されないという現実に打ちのめされる(純情でバカな)男」を執拗に描いている。

BLUE (OHTA COMICS)

BLUE (OHTA COMICS)

 90年代にはアイデンティティの不安はさらに進む。「個性」という言葉がスローガンのように叫ばれ、“この私”を見つけなさいというプレッシャーは増大するが、言われれば言われるほど“代替不能な私”は見えなくなる。自分探しブームはそうした苦しい時代の象徴だろう。恋愛物語もさらに内側の問題に踏み込んでいく。幸福な自己承認の象徴だったキスもセックスも、それが容易になればなるほど個々の神話性が失われていく。その悲しみを端的に描いたのが、援助交際する女子高生たちをメインに据えた「センチメントの季節」(榎本ナリコ)だ。

 そして、90年代の終わり、この一連のテーマは「ハッピーマニア」(安野モヨコ)で極相を迎える。主人公・重田加代子は「幸福になりたい」と、“真実の愛”を求めて幾多の恋愛を繰り返す。しかし、繰り返せば繰り返すほど、どれもこれも少しも自分の求めるものではないことに気付かされる。もはやここでは、「(恋愛が)達成された瞬間に輝きを失う」「承認を得ようと突っ走る没頭感と手に入れる瞬間のわずかな自己承認という運動自体にしか幸福がない」というバラバラに解体された恋愛神話の標本が描かれている。

ハッピー・マニア 1 (祥伝社コミック文庫)

ハッピー・マニア 1 (祥伝社コミック文庫)

 こうして、本来バラバラにされた“恋愛による自己承認”というシステムは、00年代に意外な形で復権する。純愛路線の復活だ。たとえば、00年代初頭の大ヒット作である「ハチミツとクローバー(以下「ハチクロ」)」(羽海野チカ)は、「全員が片思い」というキャッチコピーで展開された。もう少し踏み込めば、「ハチクロ」は、主要登場人物全員が失恋する物語だ(真山と最終的に主題が変わった花本はぐみだけが若干の例外)。恋愛物語としての「ハチクロ」は、失恋という叶わなかった(手軽に代替ができなかった)がゆえに永遠に輝かしい恋愛を提示している。

ハチミツとクローバー 1 (クイーンズコミックス)

ハチミツとクローバー 1 (クイーンズコミックス)

 この路線は時代にマッチした。その後00年代後半には超純愛路線の「君に届け」(椎名軽穂)が全巻100万部ペースという少女マンガとしては歴史的な大ヒットを記録する。

 また、オタク男子の純恋ものとして「電車男」が大ヒットするのが04年だ。オタク・非モテというカルチャーはこのあたりから一般化し始める。オタク層といっても、その実体は内部でさまざまなクラスタを抱えているが、おおざっぱに言えばオタク文化は処女信仰的な純愛カルチャーと近しい関係にある。「非処女は中古品」というフレーズがそのもっとも先鋭化した例だ。そう、輝かしい絆を担保するには、恋愛物語はなんとしても代替不能なキスやセックスを守らなくてはならない。

 だが、当然のことだが、そのイデオロギーを現実で体現するのはほとんど不可能だ。思春期からいわゆる適齢期までという限られた時間の中で、「自分にとっての(かつ相手にとっての)絶対の運命の相手を見つけ出す。しかもたった1回で」というのは、誰がどう考えても無茶なゲームだ。ここに00年代恋愛物語の抱える矛盾、苦痛がある。

 もちろん、オタク界隈の処女信仰的なフレーズは、半分ギャグだ。書き込んでいる人々も(ごくまれに本気で書いている人もいるだろうが)、ジョークや一種の諦観を踏まえた上で発言しているのがほとんどだろう(そう信じたい)。しかし、そうした人々が、心のどこかに「“この私”を許されたい」という気持ちを抱えているのは間違いないだろう。

 オタクの中にも現実の恋愛をきちんと受け入れることができている人は今や多いだろう。だから、すべてのオタク、すべての非モテが層とは限らない。しかし、一方でそこにつまずいてしまう人がいるのは間違いない。彼らは(そして私は)、成長の過程でうまく自己承認を得ることができなかった。自己承認に失敗し、肥大化したコンプレックスは、なおさら「“この私”を承認して欲しい」という気持ちを強くさせる。それこそ、普通の恋愛では足りないほどに。だからこそ、いっそう強く代替不能な絆に救いを求める。それが現実的に不可能だと知りながら。

 「娚の一生」などで知られる西炯子は「放課後の国」という作品集の後書きでこう書いている。

私は友達のつくり方が下手です。
今や それをこじらせて 親密な人間関係を構築することが苦手です。
そのことは 私を常に苦しめているのですが 気がつけばいつも1人です。
白馬の王子様を待つかのように いつか 「全体重をかけていいよ」と
言ってくれる人が現れるのを待っていたのですが そんな人が現れても
私は 全体重をあずけることがどうしてもできないので
気がつけばいつも1人です。

 西炯子という人自身について、私はほとんど何も知らない。作品を通じてわずかに(勝手に)想像しているにすぎない。そして、上記の後書きは人間関係全般についてという切り口ではある。しかし、この“誰かに全体重をあずけたい。存分に”という思いは、私には悲痛な叫び声(の残響)に見える。あえて断言するなら、この感覚こそ、成長の川をうまく渡れなかった(いわゆる“こじらせた”)人間の、生々しい痛みの中心なのだ。

 00年代の終わりに登場した「モテキ」は、そのきしみ、矛盾の中で上がってきた悲鳴にも思える。これまでに140万部超を売り上げたその快進撃は、長らく若い世代の自己承認の中央に鎮座してきた恋愛という装置が上げているきしみが、思っていたよりもずっと多くの人の中に残っているのではないかと思わせた。

 自己承認装置としての恋愛はおそらくこれからも一定の役割を果たし続けるだろう。だが、一方で若い世代の自己承認装置として中央に鎮座し続けることに限界が来始めているのではないか。そんなことを、今考えている。