「モテキ」に乗り切れないという健全さ——映画「モテキ」

 原作単行本の刊行開始からもう2年半が経つ。思えばずいぶん長いこと「モテキ」のことを考え続けてきたなと思う。単行本が出たといえばつぶやき、連載が完結したといったらラストに悩み、ドラマ化されるといったら笑ったり泣いたり忙しく感情を動かしたりと、何かあるたびに「モテキ」のことで頭を悩ませていた気がする。

 そして今年、おそらく最後の物語になるであろう、映画「モテキ」が公開された。普段映画など滅多に見ない私だが、これに関してはなんとしても見なくてはならない。公開週の週末に映画館へ行き、満員御礼のスクリーンで鑑賞し、その後いっしょに見た人と3時間近く話し、さらにはTwitterでもぼそぼそと感じたところをPostし続けていた。そんなところで、たまたますごく面白いエントリーを目にした。それがこのエントリーだ。

モテキ/和製「(500)日のサマー」

描かれる恋愛の青臭さと、主人公らの設定年齢がちょっと合わないようにも思うわけです。でも、これがいいのかなー。30代でも、恋愛ってこんなものなのかなー。

モテキ/和製「(500)日のサマー」”より

 この指摘はまっとうだ。あまりにまっとうすぎて、実はこれまで「モテキ」について私がいろいろな人と語ってきた中で、誰も一度も指摘してこなかった。しかし、この感覚こそが、「モテキ」という作品の強烈な引力を説明するのに必要なものなのだ。

 このエントリーを書いた人は、冒頭で原作もドラマも未見のまま、あくまで映画単体でのレビューであることを前置きしていることからもわかるとおり、おそらく「非モテ」のような文化にあまり興味を持っていないのだろう。というよりも、関心を抱かずに生きてこれたんじゃないかと思う。ギクシャクした思春期や、その後の青年期を通じて、悩みつつも着実に恋愛や人間関係の経験を積んで、ちゃんと大人になったんだろう。知らない人の人生を勝手に推測して申し訳ないのだけど。そうでないと、この感想は出てこないはずだ。

 「モテキ」という作品は、30代がやることとしてちっとも正しくないことを30代がやっていることに意味がある。主人公・藤本幸世が原作で「こんな事十代のうち……いや せめて二十代前半のうちにこなしておけばよかったんだ」と回想するように、本来であれば思春期の終わりくらいには本作で描かれるようなおよそスマートとは呼びがたい異性とのコミュニケーションも、自意識との葛藤も乗り越えておくべきことなのだろう。おそらく特に映画版の物語は、(時系列的に自意識との激しい葛藤を原作=ドラマの段階で乗り越えた後の話であるため)普通の10代のキャラクターが同じ事をすれば、いたって微笑ましい思春期的な成長譚として成立するだろう。

 しかし、そういうものを、もしも乗り越えられなかったら?

 童貞臭い生ぬるい理想を。幼いプライドと無根拠な劣等感を。そういう、たぶん多くの人が大人になる過程で(意識的にせよ、無意識的にせよ)乗り越えてきたものを、乗り越えることができなかったらどうだろう。そんな特殊な人間についてなど、表立って真っ正面から語る必要はないと、もしかしたら当たり前のように川の向こう側にいるまっとうな大人たちはいうかもしれない。しかし、そんな特殊な人間は、いるのだ。厳然と。

 「モテキ」は「あるべきだった健全さ」を手に入れることができなかった人間の物語だ。そういうまっとうさをうまく獲得できないまま大人になってしまった、もしくは成長の過程で「まっとうさ」を手に入れるのに多大な痛みを払わなければいけなかった人々が、この物語に傷をえぐられ、赤面し、「そうなんだ!!」と涙を流してきたのだ。

 私はそういうまっとうな大人になるための川を、うまく渡れなかった側の人間だ。そして、00年代はそういう人々の悲鳴にも似た声が、そこかしこで上がってきた10年でもあった。このあたりについては、非常に長くなってしまうため、別エントリーにまとめた。恋愛という自己承認とそのシステム的な矛盾は、恋愛マンガ史でもこの30年さまざまな形で叫び声となって噴出している。

補足エントリー:学園ラブコメから「モテキ」へ——恋愛マンガ30年史プレビュー

 少し横道にそれたが、話を戻そう。「モテキ」の主人公・藤本幸世は川を渡れなかった側の人間だ。卑屈で自信がなく、そのくせ(それゆえに)経験不足だから自己中心的で傲慢ですらある。その気持ち悪さを、原作、ドラマ時代も多くの人が拒絶した。しかし、その自分のダメさを、幸世自身が誰よりも自覚的なのだ。

 そんな彼が、30歳を過ぎて、今さらになって人並みに恋愛市場へ飛び込んでいくその恐怖を、川の向こうの人々はたぶん理解できないだろう。理解して欲しいとも言わない。しかし、幸世はわかっているのだ。自分が中学生並みのことしかできないと。そんな状態でまともな同世代の異性とぶつかれば、どんなダサイことになるか、醜態をさらすか、スクリーンの前の誰よりも知っているはずなのだ(そしてそのことに子どものように怯えているのだ)。

 だから許して欲しい、ということではない。川の向こうにいる人々は、思う存分幸世を罵っていいし、罵ってしかるべきだと思う。ここで伝えたいのは、川のこちら側から見たとき、「モテキ」は対岸で見るのとはまったく違う表情を見せる、ということだ。同世代の当たり前を、当たり前にするために、川のこちら側の人間が流す血は、伴う痛みは、想像を絶する。血を流しながら、悲痛な叫びを上げながら、それでもそこに参加しようとする幸世の姿は、笑えるんだけど少しも笑えない。「モテキ」に深くコミットしてきた人々は、多かれ少なかれ、幸世の姿に過去の、現在の自分を見出して、恥ずかしさやら生々しい痛みやらに悶絶してきたのだと思う。

 ここで「そんなことが苦しいなんていうのが童貞臭いんだよ」という川の向こう側の声は、残念ながら意味がない。そんなことわかっている、というより、そんなことを言葉をどんなに重ねたところで、真に理解することなんてできやしないのだ。鬱の人に「元気出しなよ」とか「気の持ちようだよ」と声をかけることに意味がないのと同じだ。

 本来この作品はそういう「まっとうでない記憶」を抱えた人たちの視座が前提にある。だから、普通に作れば川の向こう側の人々になんて、とてもではないければ2時間耐えられるものにはならないはずなのだ。映画「モテキ」(あるいは原作やドラマも)のすごみというのは、そういう絶対に理解できないであろう自意識語りのテーマを、川の向こう側の人々でもきちんと見ることができるエンターテイメントに仕上げている点だと言ってもいいだろう。「30代でも、恋愛ってこんなものなのかなー。」という極めて健全な感想を抱ける人が、全体としては拒絶せず楽しめているというのは、とんでもないことなのだ。ある意味では、そこがこの映画のもっとも優れた点だ。

 以下、最後のフェーズでは少し本編の内容部分に触れる。ラストシーンについてもネタバレがあるので、未見の方はご注意いただきたい。
 さて、映画「モテキ」は川の向こう側から見たら「なんだか冴えない30男の泥臭い恋愛をエンターテイメントにしたコメディ」という感じになるのだと思うが、川のこちら側から見ると、幸世の冒険譚、成長譚に変貌する。三人称視点でなく、一人称視点になると言い換えてもいい。

 たとえば、麻生久美子演じるるみ子を幸世が手ひどく振るシーン。幸世の器の小ささやみっともなさが存分に表れたシーンだが、おそらく、と私は思う。おそらく原作=ドラマ時点の幸世であれば、迫ってくるるみ子の気持ちから逃げ出して、うやむやにしていたんじゃないだろうか、と。あのシーンの幸世はかっこわるい。どう見ても最低だ。が、逃げなかった。自分が「違う」と感じたことを、相手を傷つけるだろうその気持ちを、ごまかさずに向き合ってぶつけたというのが、幸世にとってどれほど重要な成長か、と思う。

 これは正直このシーンに対する正しい解釈かはわからない。しかし、あのシーンが私にそのことを突きつけてきたのは事実だ。こういうバカバカしくなるほど当たり前のことを、一つ一つ真っ暗闇の井戸の底へ飛び込むような気持ちで進んでいく、血を流す行軍の物語が、川のこっち側の「モテキ」なのだ(今、自分で書いててもあまりに大仰でバカバカしい物言いだから失笑してしまったが)。

 では、ラストシーンはどうだろう。冒頭で引用したブログでは、下記のように書いて、明確に「それはないだろう」と突っ込んでいる。

ラスト、森山未來が嫌がる長澤まさみをぬかるみに押し倒してキスをする、長澤まさみは超いやがっている。んだけれど、しばらくすると笑い出して、笑いながらキスに応じはじめるのです。えっ! ちょっと待って、それはないわ! だって、相手が嫌がっていても、無理に好意を押し付ければ応じてくれるということで、行き過ぎるとレイプ肯定と同じになっちゃうんですよ。森山さん、あなた、麻生久美子にすごい迫られて、嫌がってたじゃないですか。人からされて嫌なことでも、俺が誰かにするのは良いんだ、って、それはないよ…。

 人として最低であるという批判を覚悟した上で、川のこちら側からの見解を示そう。こちらから見た「モテキ」は徹底的に幸世一人称の物語だ。だからこそ、長澤まさみ演じる本作の事実上のヒロインみゆきは、クライマックスまでキャラクター性(内面)を徹底的に放棄した正体不明の女として描かれる。かわいいんだけれど、理解できない女というのが前半でのみゆきだ。

 だからこそ、るみ子との関係などで、幸世が泥にまみれることを覚悟したあたりから、みゆきの内面性が描かれるようになる。つまり、傷つけることも、スマートでないことも全部承知で、なりふり構わず土足で相手の領域に踏み込むことで、ようやくみゆきの内面性にたどり着く、というのがこちら側から見た物語の展開だ。

 ラストシーンは文字どおり力業だ。そもそも幸世という人は、“こじらせた”人というのは、他者とのコミュニケーションに臆病だ。コンプレックスと自己否定が邪魔をして、「俺を選べ!」と迫ることができない。押し倒すほど強引に、自分のエゴを表明することが、どれほどの勇気を必要とするか。それはたぶん普通の人も多かれ少なかれ同じだろう。幸世の場合、途中段階をスマートにこなせない分、最後の力業に頼らざるをえず、必要以上に強引で痛みを伴う展開になるのだが。

 ただし、その上で私もこのラストには若干の疑問を抱いている。本作で最も重要なのは「幸世が真っ暗闇の他者に向かってジャンプする(干渉を試みる)」という点であって、その結果はある意味ではどうでもいい。むしろ、順当に失敗を重ねる方が美しいと言える。これくらい幸世という人に没頭している人間から見ても、ややご都合主義的に感じる。

 とはいえ、王道と言えば王道だ。「冒険の最後にはお姫様が待っている」「キスでハッピーエンド」は、神話の最後にふさわしい。

 結論を言えば、私個人としては「100回に1回の奇跡」としての大団円というところではないか、というところに落ち着かせている。物語の内部についての考察で、外的要因を持ってくるのは反則なのだが、ご存じのとおり、「他者への跳躍」というフェーズまでではっきりと結論を出さないやり方は原作ですでに1回使われている。映画版でも同じところにとどまるというのは選択肢として難しいだろう、という部分もある。だから、これは「基本的にはダメ、だけど、飛び越えた先にしかハッピーエンドは存在しない」という部分を先鋭化させ、「ゼロではない可能性」のひとつの結末として提示されたものと解釈している。

 いずれにせよ、重要なのは意思表示なのだ。だからこそ、るみ子にされて拒絶したことを、自身が繰り返すことが破綻せずに共存する。つまり、「ダメだったらダメだと拒絶する」という血みどろのコミュニケーションの恐怖が、「モテキ」の通低音であり、「察する」コミュニケーションははっきり言えば幸世にとっては不可能なのだ。自身も拒絶すること、強引に伝えることで血を流し、相手にもそれを強要する。それは30代としてスマートではないし、たぶんまともでもない。しかし、彼らのそのなりふり構わなさが、川のこちら側で臆病に震え続けてきた人々には、重要なメッセージなのだ。

 そんなことを今、川向こうの人たちにほんの少し耳打ちしたい。きっと理解されないだろうけど、ほんの少しだけ酒の肴に。