「食マンガなのにエロい」という“誤読”――「花のズボラ飯」(久住昌之/水沢悦子)

花のズボラ飯

花のズボラ飯

さてさて、「花のズボラ飯」だ。

昨年末の単行本発売から、TwitterのTLでも連日そのタイトルを見かけ、あっという間に店頭から初刷が消え、1月には多くの“ズボラ飯難民”を生んだこの話題作。先日はとうとう王様のブランチ(地上波!)でも紹介されたようで、いよいよ今年上半期のキラータイトルとして勢いづいている印象だ。

そんなわけで、「『ズボラ飯』どうなの?」と聞かれる機会も増えていて、今日も会社で同僚に「『ズボラ飯』読んでます?」と話を振られた。僕は基本的に「午前中とか人間が生きる時間じゃないだろ症候群」の重度罹患者なので、朝から感想求められても脳みそフリーズパック状態。しかも、悪いことにまた寒いもんだから、喋るのもかったるいという思いでいっぱいだったため、「読んでるでおじゃる。お腹すいたでおじゃる」みたいなことをウニャウニャと答えるのが精一杯という有様。軽く同僚に白痴だと思われたこと間違いなしだ。

が、そんなお脳トロトロ系の返答にもめげない同僚は続けて「あれ、エロくないっすか? なんであんなエロいんですかね?」と問いかけ。もちろん僕はなんでかなんてろくに考えてなかったわけだが、これ以上社内で白痴ポジションを不動のものにしたくない一心で、腐敗して糸引いてる頭脳をフル回転。結果、「いやー、まぁいろいろですよね。うん、一概には言えないっすよね。とりあえず主婦エロい」みたいなスマートさからかけ離れた回答を繰り出して、すごすごと自分の席に逃げ帰る羽目になったわけだ。完全に白痴や。

さて、そんな残念三次元ライフを満喫中の僕の話はともかく、「『花のズボラ飯』がなんかエロい」というのは、ちょくちょく耳に入ってくる定評だ。実際エロい。読んでみるとわかるが、エロい。

「食べるという行為自体のエロス」みたいな話は、もちろんある。人がなんであれ、フルスイングで欲望に身を任せる様子というのは、多かれ少なかれエロい。

が、そういうアカデミックなエロスの迷宮はここでは深く掘り下げない。「ズボラ飯」が、他の食マンガに比べてダントツにエロい理由として、ちょっと足りないというか、はっきり言えば、僕の糸引き脳みそ(ひきわり)では説明しきれない。

花のズボラ飯」には、実のところ、もう少し単純にエロい仕組みがある。つまり、「食べ物マンガなのにエロい!」という入り口から入るからわからなくなるのだ。エロいという観点でいえば、「花のズボラ飯」は「エロいマンガの技法で食マンガを作ってる」と見た方がわかりやすい。

これは一コマでわかる。たとえば、次のコマ。

これは、主人公・ハナコがお隣さんにもらった栗を食べるシーンだ。これだけで、花の食欲がググッと伝わってくる。が、これに少し手を加えるとこうなる。

もはや誰がどう見ても食事シーンではない。

もちろん、モザイクは少し卑怯な方法だ。モザイクを見ただけで、反射的に僕らはセクシャルな想像をする。が、重要なのは、こうしてもまったく違和感がない点だ。これを見たあと、このコマを見たら、もういやらしい方向にしかイメージが膨らまないはずだ。

つまり、よだれの表現や表情など、「ズボラ飯」では、そもそも花の食事シーンで意図的にエロの表現を使っているのだ。それがダイレクトに食欲をかき立てるのに有効に働いていると同時に、「なんかエロい」と思わせている。当たり前だ。そもそも絵がエロいんだから。

花のズボラ飯」は、徹底的に料理や生活感に対する小ネタ、リアリティのある行動が散りばめられている。ごく普通の、少しずぼらな食生活。タイトルからも、そういうふうに読むように伏線が張られている。だから、そもそもエロいということを、つい見逃して「食マンガなのにエロい」と思わされる。

ここに、決して美人系として描かれていない主婦・ハナコというキャラクターが加わる。どこにでもいそうな、生活感アリアリの主婦。だが、それがまたエロい。モデル的な美人が出てくるAVより、知り合いのブラチラの方が興奮する感覚に似ている。隣近所のごく普通の奥さんの、あられもない姿というのがくすぐる。ずぼらさの表現という体で、何気なく下着姿やらが頻繁に挟まれるのも、心憎い。

原作、作画(あるいは編集)、どちらがどのような制作プロセスを経て、こういう作品に仕上げたかはわからないが、このあっさり読者をミスリードしてエロさをアクセントにする手腕は、お見事としかいいようがない。

本筋の食マンガとしてのクオリティの上に、こういうアクセントを入れてくるあたりが、「花のズボラ飯」の妖しい魅力のひとつだと言えるだろう。