「ソーシャル・ネットワーク」、2つの苦悩

 ひとところに黙って2時間座り続けるという行為自体に一種の刑罰性さえ見出してしまう僕にとって、映画はまこと相性の悪い娯楽だ。とにかく喋れない。くしゃみもできない。タバコも吸えない。腰が痛くなってきても伸びもばかられる。暗いからてっきりそういうものかと思って寝てしまうと、話が進んでいてわけがわからなくなる。上映時間に遅刻すると待ってくれない……などなど、恨み言を言い始めるときりがない。要するに僕みたいに社会性に欠けるタイプには映画というメディアは向いてないのだ。1時間後にまだ映画を見ていたいかどうかなんて、わからないのに2時間続くのだ、映画は。

 そんな感じで、絶望的に映画に向いてない僕が、何年かぶりに自分から映画に行きたいと言い出したのが「ソーシャル・ネットワーク」だ。なんてことはない。映画は苦手でも、インターネットは好きなのだ。そして、「天才・裏切者・危ない奴・億万長者」というコピーが好きだった。もちろん一人だと「行こう」と思っても、結局モンハンでもやっているうちに休日が終わって、「来週行けばいいか」を4〜5回繰り返すうちに公開が終わる。行くなら誰かに時間と日にちを決めてもらわないといけない。誰かが決めてくれないとテコでも動かないのだ、僕は。そういうわけで、映画をよく見ている友人とモンハンをやっているときに、いかにも何でもなさそうに「『ソーシャル・ネットワーク』見たいんだけど、どう?」と声をかけ、首尾よくすべてをセッティングしてもらった上で、今日無事映画館へ足を運んでくることができた。「おれは助けてもらわないと生きていけない自信がある」を、一番ダメな形で実践してしまっている。

 さてさて、自分のクズっぷりについて長々と書いてしまったが、そういうどこにも行き着かない話はともかく、今回は「ソーシャル・ネットワーク」の話。

 見終わったあと、一番最初に考えたのは「これ以外のラストシーンは考えられるか?」だった。前評判どおり面白かった。ドラマでありながら、ザッカーバーグに一定の距離を置き、ヒーローとして描かなかった構成は好みだったし、前半のWebサービスが凄まじいスピードで拡大していく疾走感も素晴らしかった。だが、終盤からラストにかけての展開は、そういう前半の疾走感とは違う、悪くいえば放り出されるような感覚だった。

 結論から言えば、ラストシーンはやはりこれしかなかったんじゃないかと思う。このラストシーンには2つの苦悩がある。その辺りをネタバレ含みつつ、振り返ろうと思う。

以下、比較的盛大にネタバレあり。


 「天才・裏切者〜」というFacebook創始者マーク・ザッカーバーグにまつわる噂話をちりばめたコピーどおり、「ソーシャル・ネットワーク」はFacebookの始まりの物語というよりもマーク・ザッカーバーグその人についての物語だ。一言で言えば「天才もの」であり、「天才もの」の常道どおり、天才と成功者の孤独をめぐる物語になっている。

 第1の苦悩は、もちろんこのザッカーバーグの苦悩だ。「ソーシャル・ネットワーク」におけるザッカーバーグは、コンプレックスを原動力にのし上がっていくタイプの天才だ。気むずかしくて尊大で、性格的な難から女の子にフラれ、だけど、大学社交界に相手にされていないことにコンプレックスを抱いている。後半、すでにIT界で伝説的な存在になっていたナップスター創始者・ショーンに傾倒していくのも、コンプレックスの裏返しだ。崇高なものに近づきたい。認められたい。そうすることで権威と自信を手に入れたい。自信のない彼は、自分の外側の権威や承認を誰よりも求めている。みんなに認められたい。本作におけるFacebookの原動力は何よりもそこにある。

 だが、「権力者の孤独」という言葉が示すとおり、成功は人を孤独にする。ザッカーバーグは物語の後半、Facebookが巨大になっていくのとは裏腹に、3つのものを失う。

 1つは親友。巨万の富と名誉は、彼と共同創始者であった親友・エドゥアルドとを引き裂いていき、エドゥアルドは彼を相手取って訴訟を起こすことになる。

 2つめは崇拝すべき相手。信奉するシェーンはよくも悪くも完璧な天才であり、同じ意味でクレイジーだ。無鉄砲なまでの自信を持っていて他人を必要としないし、ビジネスマンとしてはいい加減すぎる。一緒になれば、悪い部分も出る。かつてのように、無邪気に彼を崇拝し続けることはできない。

 3つめはついに手に入らなかったもの、愛すべき恋人だ。物語冒頭でザッカーバーグは、恋人であったエリカに手ひどくフラれる。その後、彼はFacebookの成長とともに女の子たちの憧れも集めるようになる。行きずりの女の子に迫られ、関係を持ったりもできるようになった。しかし、得意絶頂の彼をやはりエリカは軽蔑し続ける。ラストシーン、自分が作ったFacebookで、ザッカーバーグはエリカのアカウントを見つける。自分を軽蔑し続けたエリカが、ついに自分の作ったサービスを“認めた”。だが、彼はエリカに友達申請しようか悩んだ末、「キャンセル」をクリックする。望んだはずの場所で、たくさんのものを手に入れた彼は、望んだものを失ったのだ。

 ザッカーバーグの孤独と苦悩は、物語のスピード感にも直結している。冒頭のエリカと会話シーンでは、ザッカーバーグはべらぼうに饒舌だ。日本語字幕はおそらく可読性の問題でかなりシンプルになっているが、英語で話している彼のセリフは明らかに日本語字幕の数倍のボリュームがある。早口でガンガンまくし立てる。大学寮のデータベースへ侵入をかけるシーンも、膨大なモノローグが押し寄せる。展開も圧倒的なスピード感に満ちている。だが、Facebookが巨大化するにつれ、ザッカーバーグはどんどん無口になっていく。エドゥアルドとの会話も、シェーンとの最後の電話も、和解交渉のテーブルでも、彼はポツリポツリとしか語らない。そして、最後はFacebookのエリカのページを無言で更新ボタンを押し続ける。ザッカーバーグ時代の寵児でありつつ、同時にマスコミ嫌いとしても知られている。このラストシーンは、そういう語らない現実のザッカーバーグへとつながっていく形にもなっている。

 物語の内側にある苦悩は、ある意味では非常にベタだ。成功とその裏側の孤独。だが、「ソーシャル・ネットワーク」は、この前半と後半のギャップをあまり強烈に描いていない。これが最初に感じた「ほかのラストはあり得なかったのか」という違和感の原因だ。

 普通の話であれば、成功と転落を描いて、そこから立ち上がる展開にすればいい。「すればいい」という言い方は乱暴だが、転落があるからこそ孤独の陰が鮮烈になる。しかし、本作は転落を描かない。というより、描けない。何しろ、マーク・ザッカーバーグは実在の人物であり、Facebookは転落するどころか、ますます支配力を増し、今や世界最大のSNSになった。2010年はついにTIME誌の「今年の人」にザッカーバーグが選ばれた。転落どころの話ではない。

 実在の人物、しかも現役の時代の寵児を題材に選んだこと。これがこの、放り出すようなラストシーンにあるもうひとつの苦悩だ。派手なドラマを創作できない。現実とかけ離れすぎれば、現実で起こったニュースを知る人々にリアリティを感じさせることができない。だが、ヒーローものは退屈だ。現役の成功者をヒーローとして描く物語なんて興ざめもいいところだ。その人物がゴシップ的な噂話に彩られている場合は特に。

 結果的に、物語はそっと、ザッカーバーグを放り出した。ザッカーバーグの心境を語ることなく、一定の距離を保ち続け、突き放すように「何を考えているか、何があったかはわからない」と淡々とカメラを回し続ける形を取った。

 スタッフロールが流れる間、前半の疾走感から、ラストシーンのもの語らぬ投げ出し方に、少し途方に暮れた。「後半はどうなんだ?」と一緒に行った友人といろいろと話をした。「どうなんだろ」なんて言い合った。でも、帰りの電車でザッカーバーグのことを考えた。よく知らない、海の向こうの億万長者。ザッカーバーグは、今何を考えているんだろう、と。最高のラストだったかと言われればわからない。だけど、「ソーシャル・ネットワーク」という映画が行き着く最後の場所は、この帰りの電車でザッカーバーグのことを考える時間だったのではないかと、今ちょっと思っている。