自分のセックスを笑うな

38歳にもなっていうのもなんだけれども、性の悩みがある。性の悩みといってもかねてから進行中のEDの話ではない。セックスの話。一般的に人類の皆さんはどんな感じでセックスしてんですか、という話だ。

一般的にはそういうことの手順といったら、ホテルに行って、シャワーを浴びて、グリンスで洗ってイソジンして、みたいな感じだろう。あ、当方素人童貞なので今回の話は全部風俗の話だから。ヘルスなので厳密にはセックスの話でもない。

で、まあ、なんやかんやするわけだけど、そのときにちょくちょく女性にいわれるのが、「なんで笑ってるの?」だ。

こちらからするとなんでもクソもない。赤ん坊とか犬とか見たときに、かわいくてつい満面の笑みが出てしまうのと同じ感じで、かわいいからつい笑ってしまうというだけだ。だけど、どうもそれはおかしな感じらしい。

まあ、私の場合は向こうからしたら見ず知らずのおっさんだったりするわけだから、暗に「ニヤニヤしやがって気持ち悪いな!」といわれている可能性は高いのだけれども、それにしたって、である。じゃあ、皆さんどんな顔してセックスしてんですか、という話だ。そんな絶対に笑ってはいけないデリヘル24時みたいな顔してんですか、と。

それならそれで、タイマーといっしょにボタンとかセットして笑うたびに「デデーン! コバヤシ、アウトー」みたいな音声流してもらいたい。笑うとそのたびに中断してケツバットくらい、話が進まないので「えー! もう10分前ー?」みたいな感じで延長に持ち込まれる。そこまでされればこちらも死活問題なので心を持たないロボットのような気持ちで挑む。射精したとき初めて感情に目覚めた感じで「これが……精子……?」とかつぶやく。

ただ、この話は冗談でなく私の場合は長年の問題でもあったりする。ホテルでの話に限らず、雰囲気がつくれないのだ。

かつてフラれたときに「2人でいるときも友だちといるときと変わらない」といわれたことがあるように、ムードのある顔が、私にはないのだ。呼吸を止めて1秒私、真剣な顔したことがない。それがどういう顔かわかっていない。

一般的に人々がどんな顔でセックスしているのかは知らない。だけど、人のセックスだけでなく、自分のセックスも笑ってはいけないのだ、たぶん。

 

 

 

人間性が卑しいので、チンチンを見つめ、チンチンもまたこちらを見ている

人間性が卑しいと人生本当に損だ。

日曜日の話だ。ここ最近、日曜日は温泉に行くことにしている。温泉といっても湯煙殺人が起こりそうなやつではなく、スパ的な市民向けの健康施設だ。田舎のいいところはとにかくこの手の施設がそこら中にあることである。温泉にさえ浸けておけば市民は骨抜きにできるといわんばかりに各市町村にあり、しかも利用料がお安い。うちの近所でいうと、600円そこそこでサウナ付きの温泉はもちろん、温水プールも使い放題になる。さらに20時以降は半額。営業終了の22時まで、銭湯の入浴料より安い300円というお値段で露天風呂から半身浴できる風呂、ジェットバス、寝湯、サウナ、水風呂などなどを堪能できる。こうして市民は骨抜きにされ、権力監視精神は失われていく。

そんなわけで反骨精神を失った中年こと私は、日曜日になると夜な夜な温泉に行く。中年の作法に則って「う゛ぁぁぁぁ」とうなり声を上げながら、やたらとたくさんある湯船をハシゴしまくる至福。たまらない。将来は温泉になりたい。

とまあ、温泉に関してはもはやいうことはないし、これ以上ないほど幸福な気分になれるのだが、しょうもない人間はそういう幸せな時間にすらしょうもないことを考える。チンチンのことだ。

裸眼を見られることを極端に嫌う私も入浴時はメガネを外す。メガネを外すとほぼ何も見えない。人間か木の柱か程度の区別が精一杯で、個体差はほぼ消滅する。ハムスターの群れくらいの感覚で、誰が誰なのかわからない。

正直危険でもあるので、メガネをかけたまま入ることも考えるのだけど、いかんせんセルフレームは熱に弱い。お湯をかけると白く粉を吹いたりする。そこまでの犠牲を払って裸のおじさんだらけの空間を直視するのはツラいので、裸眼で手探りしながら入浴することにしている。

ここからが繊細な心の機微なのだが、風呂に入るとチンチンが見える。こちらも余裕があれば手ぬぐいで隠したりはしているが、さすがにもうチンチンを鉄壁のガードで守り抜くような年齢でもないので、私のものもまあ、だいたい見える。基本的に公衆浴場で他人の陰部をまじまじ見つめる人はいないし、私にしたって好き好んで他人のチンチンを見たいとは思わない。だが、それでいて見えたらつい見てしまうのも他人のチンチンである。見たくないと思いながらも、視界に入れば「うーん、えげつないサイズ」とか自分のものと比較してしまう。そういう心理を持つ人は少なくないはずだ。

こちらとしても、まあ見えてしまうものを見られるのは構わない。ただ、当方粗末である。尿道以上チンチン未満くらいのやつであり、「チンチン」というか「ツンツン」くらいの名前がちょうどいい感じのものだ。こっちはただでさえ着々とEDも進行しているのだから、張れる虚勢は張りたい。事実ツンツンだとしても「なるほど、あいつはツンツンか」みたいに思われたくない。とはいえ、大きければいいというものでもないし、他人の股間にぶら下がってるのがチンチンだろうがツンツンだろうがどうというわけでもないので、「ツンツンですけど、それが何か?」という顔をして通している。

その時点でチンチンが小さい上にケツの穴も小さいという話なのだけれど、人間性が卑しいとさらにしょうもないことを考える。私のツンツンは見られるのに、私は裸眼になると他人のチンチンが見えないのだ。オールモザイク。どこが無修正だ。

見たいわけではない。むしろできれば見たくない。けれど、同じ料金払って私のツンツンは品評され、私は品評できない。これは不平等だ。私だって視界に入ってきたチンチンに対して「うーん、これはもうチンチンというかゴンゴンくらいの呼び名がふさわしい」みたいなことを思いたい。いや、思いたくはないのだけれど、何かこう、視力が悪いとここまで人間は不幸になるのか、とサウナで悔しさに震えることになる。

ここまで読んだ人はおわかりのとおり、私が不幸なのは視力が悪いためではなく、人間性もしくは頭が悪いためである。そういうわけで、湯船で恍惚の表情を浮かべながら「俺は……人間性が卑しい……」とつぶやくことになり、安息の日曜は終わっていく。

人間性が卑しいと温泉すらケチが付く。私は私の幸福のために高潔になりたい。そして、将来は温泉になりたい。

 

 

人には書きたくない文章がある featuring トリートメント

朝風呂派である。寝癖は酷いし、寝起きも悪いので、薄らぼんやりとした髪と頭をとりあえず風呂に入って何とかしたいから、風呂は朝と決めている。

要するに爽やかな朝を迎えるために朝風呂にしているわけだけれど、にもかかわらず風呂に入ると気持ちがどんよりしたりもする。原因はトリートメント。

私くらい意識の高い中年になると紙パックの牛乳を直飲みせずにコップに移すし、スーパーカップの蓋に着いたアイスも舐めずにスプーンですくうし、気が向くとトリートメントも使う。ただ、意識は高いが知能は低いので、トリートメントも何となく使っているだけであり、実際のところどの程度輝く美しい髪につながっているのかはわかっていない。さしてしたいわけではないけど、シャンプーもコンディショナーも使ったし、やっとく?みたいなナアナアのマンネリのなかで続いているのが私とトリートメントの関係だ。

そんな関係なので、正直トリートメントに対する理解もナアナアである。髪に栄養を与えるとかダメージをケアするという役割は何となく知ってはいるが、どういう栄養が入っているのかは知らないし、どの程度の時間付けておいてから洗い流すのがいいかもわからない。なので、せめて用法用量を正しく理解しようとパッケージの使い方を読む。すると書いてあるのがこうだ。「適量を両手のひらに広げ、髪になじませます」。

「適量」。適した量、適切な量。文章を書く人間にとって「適量」は敗北の文字列だ。「適量」という言葉が出てくるのはたいがいレシピや説明書的なガイドである。つまり、適した量がわからないから読んでいる。そういう人間に「あー、とりあえず適切な量でいいから。あ? 適量は適量だよ! そんなこともわかんねえのか、これだから今の若いやつは」という入社5年目のイキッた先輩みたいなのを当てるのは人道に反する。しかも先輩、使いすぎたら使いすぎたで「何無駄遣いしてんだよ!」って怒るじゃないっすか。

とはいえ、料理のレシピの「適量」はまあわかる。入れすぎればまずくなるし、少なければ物足りない。失敗しつつ自分の好みというものに対する「適量」を見つけていくことができる。洗剤あたりもまあいい。「本当はもっと少なくていいんです」みたいな話はあるものの、要するに油汚れが落ちればいいし、気持ちよく泡立つみたいな洗い物をする人のテンションを上げるための適量も個人個人で見つければいい。

が、トリートメントの「適量」はわからない。何しろこっちは効果すらろくに認識していないのだ。結果から推測することはできない。かといって泡立ちもしないので「まあ泡立ってるしいいか」みたいな欺瞞も通じない。パサつきをおさえて芯まで潤ったさらさら髪にしたいだけなのに、適切なモイストスムースケアができない。

まあ、そもそも何となく気分でやっているだけなのだから、モイストがスムースしようがしまいがどうでもいいといえばそのとおりなのだけれど、ライターが「適量」に出会ったときの消耗は大きい。つい「じゃあどう説明するのがいいか」を考えてしまうからだ。

「お好みに合わせて数振り」「ティースプーンに軽く」「1円玉程度のサイズに」など、具体化の手段はいろいろある。だが、トリートメントの場合難しいのは使用者の髪の量がかなり違う。髪の短い男性も、ロングヘアの女性も使う。さらには同じくらいの髪の長さでも、髪の貧しい中年もいれば、前世が羊だったっていうくらいの量の人間もいる。一定量の決め打ちはできない。

すると髪の量に対して適切な量を考えることになるが、「髪の毛○gに対して本品○g程度」という説明では感覚的に量をつかめない。シャンプーもコンディショナーも終わって、ずぶ濡れの状態で髪の毛の重さを量るわけにはいかない。しかも、髪の太さも人それぞれある。

しかも、説明文というものには適切な文量がある。「適量」の説明を長々とするよりも伝えなければいけない情報があり、そこにこそ文字を裂かないといけない。そもそも文章はたいがい長ければ長いほど読み飛ばされる。「長い」と思われただけで読まれず、その文章は無になる。さらにはパッケージのサイズ上の限界もある。商品には必ず入れなければいけない必須情報やバーコードのようなものがあり、補足的な説明文は必然的に圧縮される。使える文字数はほとんどないといっていい。

結果、諦めとともに「適量」という言葉が選ばれる。おそらくこの文章を書いた担当者も、こういう逡巡の末「まあ、うん……適量で……」というところに至ったのだろう。そこに挑戦した私も新たな最適解を見つけられず、ずぶ濡れで放心する。人にはいろいろと書きたくない文章というものがあるが、「トリートメントの使用説明文」はそのひとつだ。説明文界のフェルマーの最終定理といってもいい。多くの文字書きがこの難問を前に倒れていったのだろう。

気分よく1日のスタートを切ろうとトリートメントを手に取るたび、こうして私は疲弊し、自分の無力さに打ちひしがれることになる。平成の次の元号の間には、トリートメントの適量を10文字程度で明快に説明する表現が見つかることを願ってやまない。

 

 

サッポロ一番を食べるたびに敗北を感じる

食べるたびに敗北を感じるものといえばサッポロ一番である。

別に「サッポロ一番は敗者の食べ物! 無農薬で育てられた採れたてのインスタント麺を成城石井で買うのが勝者なのだ、貧乏人めが!!」みたいな話ではない。むしろ好きだ。ときどき無性に食べたくなるし、実際さっきもすすっていた。正直、歯医者で出された抗生物質(食後30分)を飲むために半ば義務的につくって食べたのだけれども、しぶしぶ食べ始めても食べてるうちに「うまい」「予想よりうまい」「もう1杯行ってもいい」みたいな気持ちになってくるくらいには好きである。

にもかかわらず、サッポロ一番を食べると、どうしようもなく敗北を感じるのだ。何の敗北かといえば、オタクとしての敗北だ。

何をもって「オタク」と称するかというのはそれはそれでややこしい話ではあるのだけれど、私は一応「マンガをたくさん読んでますよ」というのを売りにしているライターであり、大雑把にいえば「マンガオタク」というカテゴリーに入るといっていい。どちらかといえば「オタク」であるほどいいし、ある種のオタク性は職業的にも求められる資質である。

ところが、前々からうっすらと気付いてはいたのだけれど、どうにもこの人はオタクとしては資質に欠けている。確かにいわゆる一般の人に比べればたくさん読んではいるし、それなりに知っていることはある。レコメンドもできる。けれど、どうも私には偏執的なものがない。データをコツコツと集めて記録し続けるような地道な作業に喜びを感じないし、特定のものに対して圧倒的な愛情を注ぎ、ほとんど妄執のような切り口を生み出すようなこともない。マンガというもの自体は好きだし、好きで仕方ない作品もあるが、ひたすらある作品、ジャンルを深く、繰り返し問い続けるというタイプではないのだ。40歳も近づく歳になれば「まあ、そういうタイプはそういうタイプでできることはある」と思えるようにはなるのだけれど、それでもオタクとしての資質の欠如は思春期以降、今に至るまで私の消えないコンプレックスであり続けている。

サッポロ一番はこのコンプレックスを刺激する。たとえば、私はサッポロ一番では醤油味が一番好きなのだけれど、どうも“通”は塩なのだ。そして、王道は味噌。通の塩派はアレンジに偏愛、いろんなことを語る。不動の王者である味噌も王者らしく語るべきことがたくさんある。ネットにおける食べ物の宗教戦争といえばきのこたけのこ戦争がその筆頭だが、今やほとんどジョーク的になっているきのこ・たけのこに対して、サッポロ一番派閥戦争は「戦争」といえるような状態でない反面、それぞれがうんちくや思い出を含めた思い入れ、偏愛といった一家言を持っている。

対して私である。醤油派である。どうにもこう、存在感が薄い。もちろん少数派であることは恥ではない。むしろ多くの人が持たない偏愛こそが面白いのだ。ところが、私ときたら、別に醤油味に対して語ることがないのだ。「え? うまくない?」。これだけ。アレンジレシピも特にない。なんなら塩の方がパンチの効いたアレンジがしやすいし、野菜やらキムチやらトッピングは味噌の方が相性がいい。醤油味が好きなのにもかかわらず、特に醤油味について独自の見解や視点、偏愛を持たず、「え? うまくない?」だけで醤油派をやっているのだ。醤油派全員が私のような人間ではないはずだが、構成員にこういう意識の低い人間がいたのでは、味噌・塩のツートップに差を付けられるのも致し方ない。麺、粉末スープ、スパイス、パッケージ、水、鍋、タイマー、コンロ、どんぶり、菜箸、箸に次ぐ12人目のメンバーであるサポーターがこのザマなのだ。醤油味の存在感だってイマイチ薄くなる。

散々食べてきて、しかも好きだと公言しているサッポロ一番醤油味に対してすら私には妄執的なものを持てない。サッポロ一番を食べるたびに、私はそういうオタクとしての敗北感を味わうのだ。 

 

俺マン2011について(まとめ)

 「外天楼」(石黒正数)重版分の帯に「俺マン2011 第1位」という文字が入ったということで、「俺マンって何?」という方が検索でやってくるかもしれないと思い、一応俺マンについてまとめたエントリーを追加しておきます。いろいろと経緯はあるのですが、簡単にまとめると下記のとおりです。

 「俺マン」とは、「俺マンガ大賞」の略称です。Twitter発の企画で、マンガ好きユーザーが「選定の基準もない、参加資格もない、自分の独断と偏見で2011年面白かった漫画を選ぶ」という形で、2011年に面白かった作品を選び、最終的に集計・ランキング化されました。

#俺マン2011 集計結果
1位:「外天楼」(石黒正数 作品詳細
2位:「銀の匙 Silver Spoon」(荒川弘 作品詳細
3位:「鉄楽レトラ」(佐原ミズ 作品詳細
4位;「25時のバカンス」(市川春子 作品詳細
5位:「ドリフターズ」(平野耕太 作品詳細
6位:「草子ブックガイド」(玉川重機) 作品詳細
7位:「竜の学校は山の上」(九井諒子 作品詳細
8位:「昭和元禄落語心中」(雲井はるこ) 作品詳細
9位:「HUNTER×HUNTER」(冨樫義博 作品詳細
10位:「花もて語れ」(片山ユキヲ 作品詳細


11位:「グラゼニ」(森高夕次/アダチケイジ)/「ヒナまつり」(大武政夫)/「鬼灯の冷徹」(江口夏実)/
14位:「女の穴」(ふみふみこ)/「ちはやふる」(末次由紀
16位:「3月のライオン」(羽海野チカ
17位:「ぼくらのよあけ」(今井哲也
18位:「姉の結婚」(西炯子)/「四月は君の嘘」(新川直司)/「信長協奏曲」(石井まゆみ)
21位:「少年ノート」(鎌谷悠希
22位:「アゲイン!!」(久保ミツロウ)/「うどんの女」(えすとえむ
24位:「鉄道少女漫画」(中村明日美子)/「ママゴト」(松田洋子
26位:「かわいそうな真弓さん」(西村ツチカ)/「となりの関くん」(森繁拓真)/「ねじまきカギュー」(中山敦支)/「よつばと!」(あずまきよひこ
30位:「あさひなぐ」(こざき亜衣)/「あの日からのマンガ」(しりあがり寿)/「失恋ショコラティエ」(水城せとな)/「帝一の國」(古屋兎丸)/「見かけの二重星」(つばな)/「ミラーボール・フラッシング・マジック」(ヤマシタトモコ
36位:「げんしけん 二代目」(木尾士目)/「ジョジョリオン」(荒木飛呂彦)/「ナナマルサンバツ」(杉基イクラ)/「めだかボックス」(西尾維新/暁月あきら)/「よいこの黙示録」(青山景)/「預言者ピッピ」(地下沢中也
42位:「海街diary」(吉田秋生)/「がらくたストリート」(山田穣)/「AKB49〜恋愛禁止条例〜」(元麻布ファクトリー/宮島礼吏)/「午前3時の危険地帯」(ねむようこ)/「ごっこ」(小路啓之)/「関根くんの恋」(河内遙)/「空が灰色だから」(阿部共実)/「第七女子会彷徨」(つばな)/「地上はポケットの中の庭」(田中相)/「デラシネマ」(星野泰視)/「脳内ポイズンベリー」(水城せとな)/「BUTTER!!!」(ヤマシタトモコ)/「花のズボラ飯」(久住昌之/水沢悦子)/「ハルシオン・ランチ」(沙村広明)/「冒険エレキテ島」(鶴田謙二)/「めしばな刑事タチバナ」(坂戸佐兵衛/旅井とり)/「百合男子」(倉田嘘
59位:「宇宙兄弟」(小山宙哉)/「寿司ガール」(安田弘之)/「血潜り林檎と金魚鉢男」(阿部洋一)/「テルマエ・ロマエ」(ヤマザキマリ)/「となりの怪物くん」(ろびこ)/「友達100人できるかな」(とよ田みのる)/「星を継ぐもの」(P・ホーガン/星野之宣
(集計ここまで/総投票数1531票)

 実際の投票や流れなどは、下記のTogetterにまとめられています。

 「俺マン」のハッシュタグが生まれ、Twitter上の企画として動いたのは2011年が初めてのことで、実は企画としてもかなり偶発的・流動的に誕生したものです。その辺のところを、少々長いですが、念のため以下にまとめておきました。ご興味のある方はこちらもご覧下さい。

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